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【活動報告2023.8.17】(第28回)縁joy!日本書紀の会

開催日:2023年8月17日(木曜日)
開催場所:オンライン
出席者[入会順、敬称略]: 荻野、関、増山、森本、宮嶋、深田、鈴木
<発表者>宮嶋

 「縁joy!日本書紀の会」では、日本書紀(上・下巻)に記されている天皇の中から、自分が興味・関心を持った天皇について学んだ事をオンライン形式の場で発表し、それについてメンバー全員で感想並びに意見交換をおこなっています。同好会に参加する前は「日本書紀の『に』の字も知らない」という状況の私でしたが、活動を通して色々調べていく中で、我々日本人の『精神のルーツ』について多くの学びがある事を実感しています。今回、私は下巻第二十一の崇峻天皇(泊瀬部天皇/はつせべのすめらみこと)を取り上げました。過去に2度担当した回は崇神天皇についてでした。私が「崇神」と「崇峻」、二人の天皇を取り上げたのは、“崇”という字が愚息の名前の一字だったという実に単純な理由からです。ですから、今回崇峻天皇が「弑逆(しいぎゃく)された天皇だった」という事も初めて知りました。
 さて、前置きはこのくらいにして、以下は活動報告です。

 古代史において殺された天皇は、「壬申の乱」における大友の皇子など幾人かが存在するのですが、「臣下の手にかかって暗殺(弑逆)された天皇」は、崇峻天皇ただ一人と云われています。その時代背景は、物部氏と蘇我氏が排仏派と仏教導入派で対立し、物部氏は蘇我氏によって滅ぼされてしまいます。その後、炊屋姫(かしきやひめ/後の推古天皇)と蘇我馬子の勧めによって泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位するのですが、わずか五年(古事記では四年)の在位の後、馬子によって暗殺されてしまうのです。この事件に関する書籍や文献等を調べてみると、背後に多くの謎が隠されていることが分かりました。

【弑逆事件の謎】
◆暗殺実行者の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、口封じの為ではなく、暗殺命令者・蘇我馬子の娘を汚したという事件とは全く別の事由で、馬子によって殺された。
◆絶大な権力を握っていた馬子であったとしても、臣下が天皇を暗殺したという事は王権存立の根幹に関わる重要な問題であり、異常な事態が発生してもおかしく無い状況であるにも関わらず、臣下の間に動揺が生じていない。
◆日本書紀の崇峻紀には、暗殺事件の首謀者である馬子を、誰かが非難したという記事が一切ない。
◆崇峻天皇は崩御したその日に葬られ、殯を行なった等の葬儀記述が全くない。(因みに、古事記には暗殺を示す記事は無い)
◆炊屋姫は、馬子と共に崇峻天皇の即位を勧めたにも関わらず、馬子による弑逆を咎めることなく、事件のあった翌月には後継の天皇(推古天皇)となり、馬子を大臣として重用した。馬子はなぜ失脚しなかったのだろうか。

 これらの事から、馬子は本当に天皇暗殺事件の首謀者だったのか?という疑問が浮かんで来ます。それと同時に、この事件は他の群臣も承知の上で行なわれたクーデターだったのではないかということです。探っていくと、日本書紀に書かれている「もう一つの暗殺事件」が関連しているという事が分かりました。それは、「巻二十四皇極天皇の『蘇我蝦夷・入鹿の滅亡』中大兄の謀ごと」に書かれています。
 『聖徳太子伝説』(豊田有恒著)によれば、「崇峻天皇の暗殺から53年後、天智・天武の両天皇が蘇我蝦夷・入鹿を討って、大化の改新クーデターを行なった史実を正当化するためには、崇峻天皇暗殺事件があったことを日本書紀に記載しなければならなかったのだ」と述べています。また、日本書紀は720年に天武天皇の第六皇子である舎人親王を長として編纂されていますが、「舎人親王は天智・天武両天皇の子孫であるが故に蘇我氏に好意的ではなかったのではないか」とも記されています。もしかしたら、馬子は大悪人に仕立てられてしまったのかも知れません。蘇我の蝦夷や入鹿の名前についても、本名ではなく蘇我氏を貶めるために死後付けられた別称とも云われています。
 作家である松本清張は『清張通史』の中で、「中央集権的な官司制度は、蘇我氏が前から豪族連合である氏姓制度のもとで実質的に進めていたもので、天智天皇とその側近は、それを横取りしたに過ぎない。」と記し、蘇我氏の治世を大いに評価し、天智天皇や中臣鎌足らがその業績を奪い取ったという見解を示しています。“史実が真実であるとは限らない”という事を、改めて考えさせられた崇峻紀でした。

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