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【活動報告2023.6.15】(第26回)縁joy!日本書紀の会

開催日: 2023年6月15日(木)
開催場所: オンライン 
出席者[入会順、敬称略]: 荻野、関、増山、森本、宮嶋、深田、柳下、鈴木

<発表者> 深田

今回は、雄略天皇の3回目。当時の朝鮮半島情勢にフォーカスしてみました。
時代は5世紀後半、古墳時代の後半になります。中国の歴史書には5世紀には当時南北朝に分かれていた中国の南朝に5人の王(天皇)が朝貢した記録が残っています。
5人の天皇が誰かは特定されていませんが、5人の最後の人物は雄略天皇だろうという説が一般的です。朝貢の目的は、朝鮮半島における倭国の軍事支配権を中国側に認めてもらうことでした。

雄略紀にはヤマト王権が朝鮮半島の3国(百済・新羅・任那)を支配下に置いていたと記述されています。百済が北の高句麗に攻められて王が殺された時には、人質として大和にいた百済の王族の中から雄略天皇が次の王を選任し、大和から護送して即位させ百済の国の存続を助けたという記述があります。

さらに、任那にはヤマト王権の出先機関である「任那日本府」があり、国司や将軍、軍隊が常駐していたこと、新羅がヤマト王権に抵抗するため新羅討伐が行われたことが記されています。しかも、新羅討伐軍が新羅に敗れて戦死した豪族たちの名前も詳細に記載されています。

これらの記述がどこまで史実を反映しているのか、初期の大和朝廷が朝鮮半島にどこまで介入していたのか、残念ながら確かめるすべはなく、考古学的な裏付けもとれません。日本書紀の編纂は681年から始まりますが、その頃には朝鮮半島は既に新羅によって統一されています。天智天皇は百済の復興を図るために中国(唐)と新羅に「白村江の戦」を挑み大敗北を喫して唐の侵略に怯えていました。

こうした時代背景の中で書かれた日本書紀には倭国の強さを誇張して「唐」の侵略に備えたいという天武天皇の意向が働いていたという推測が成り立つかもしれません。 
いづれにしても現代にまで続く日韓問題の複雑な背景を日本書紀からも読み取ることができます。

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